2008年09月30日

渡辺歩、映画ドラえもん のび太の恐竜2006、2006

これの発表は『時をかける少女』と同じ年だったということもあり、二つ揃えてかなり野心的な作品として『Invitation』なんかで取りあげられていた。『時かけ』を先に見てしまうと、それほどの傑作ではないと思えてしまうけれど、野心的であるのは間違いないと思う。日本人なら誰もがドラえもん論を一時間はできるという国民的漫画の劇場版アニメ第一作のリメイク。オリジナルが1980年だったわけだから、26年ぶりというわけだ。

アニメが26年前とは別物になっているということを証明するかのようなディティールの追加。それを見るだけで、アニメという映像表現がどういうものなのかが分かるはず。たとえばタケコプターで浮遊する直前の風の流れの表現、空中での速度感などなど。そういうディティールを楽しめない人はきっと映像表現というものを楽しむことのできない人だと思う。

んで、このバージョンで特徴的なのは、人物や表情の動きの柔らかさにあると思う。ドラえもんという漫画はコマ割りも直角だし、アニメでも動きもそんなに滑らかじゃないという印象があった。それが非常に柔らかい動きをする。これはニュードラえもんと言ってよい。そして、その動きが新しい声優陣とよく合っている。映像が与えてくるイメージと、声のイメージとが共に新しいものなので、同じドラえもんのはずなのに、全然違うドラえもんを見せてくれているという感じがする。こういう捕らえ方はちょっとマニアックかもしれないが、国民的アニメだからこそ可能な試みで、斬新な演出方法だと思う。

それで、恐竜をペットにするというこの話。今見るとなんだかものすごくオーソドックスな内容。ドラえもんでなくてもいいくらいだ。実際ドラえもんはかつてないほど(さかのぼってみるとそう感じるんだからしょうがない)活躍しないし。これが今見るとほんとうに古典的に思えるのだから、時代というのは不思議なものだ。

古典的なものを新しい装いで見せる。それを歌舞伎とかでなくアニメでやるにはかなりの確信と野心をもっていないとできないもの。やはりこの監督はたいしたものだと思った。次回作が楽しみですね。



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2008年09月29日

Rob Minkoff, THE FORBIDDEN KINGDOM, 2008

カンフー映画マニアのアメリカ人が如意棒を手にしたことで中国っぽい世界に飛ばされてジャッキー先生にカンフー習って孫悟空を蘇らせにいく話。典型的なハリウッド映画とかみんないってるけど、これ、ぶっ飛みすぎでしょ全体的に。



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2008年09月28日

小津安二郎、晩春(Late Spring)、1949

コメディ映画かと思ったら、ホラー映画だった。そんな変な映画が日本映画の最高の傑作の位置を占めているのだから、世の中変なものである。つうか、原をはじめて使うというのに、ここまでやらせる小津ってやっぱり異常だよ。そして、その異常さをこともなげにかわす笠智衆のキャラ作りもやはりまた異常だ。そして、その異常さをどこかあっさりとした展開でもって流していることのなんともいえない奇妙さ。いやはやなんとも。

とにかく原の顔。冒頭から彼女の表情がひたすら映される。自転車に乗っている彼女の満面の笑み。それから、まさに般若のような彼女の怒った顔。旅館で床に就いたときに見せるなんともいえない微妙な表情。あんな顔はとても指定してさせることのできないものだろうから、これは彼女の本来の持ち味だと言ってよい。この女優が、なぜ日本映画史上もっとも謎に満ちたスター女優であったのか、それに応えるにはこの映画一つで足りる。

そして、笠。こっちはまさに能面のような笑みをずっと浮かべている役割。これもまたすごい。ほんとにすごい。笑みを浮かべるということがかもし出すなんともいえない緊張感。この笑みが果たす何通りもの役割。これは、ちょっとほかに例を見ない。ああ、しかしこの映画、緊張感ありまくりで疲れるよね。杉村春子だけが唯一の救い。

だからこの映画、テーマ的には『父ありき』で描いた父一人と息子一人のお話を、同じような手法でもって父一人と娘一人にして描いたと言えるんだけど、ここでの「怒り」というテーマは『東京暮色』に連なるものであるともいえる。二年後の『麦秋』など、「結婚」をテーマにした映画をこれから何度も小津は作るが、そうした映画とこれとは一線を画しているように思われる。それはひとえにこれが、日常に隠してきた強い感情がむき出しにされそうな瞬間と、それを見事にかわすいかにも日本的なやり取りが交わされる映画であるからだ。


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2008年09月24日

Vadim Perelman, The Life Before Her Eyes(ダイアナの選択), 2008

意外と劇場で誰も入らないような映画というのはやっているものだ。まあそういう映画ってのはわざわざここで取り上げたりしないのだけれど、これはさすがに平凡を極めていたので逆にすごいと思った。ウマ・サーマンとか、ダイアンの若いころのお目目のでかい友達とか悪くないと思う。んが、高校での銃乱射事件を題材に作ったこの映画、どうにもこうにも平凡だ。まあ、死ぬほど退屈というわけでもないし、主役の女の子たちも可愛くってよいのだけれど、まあそれだけ。

原作は、日常の美しさみたいなのを詩的な文章で綴った素敵な小説らしい。それをこんなありがちなスリラーにしちゃうなんて。間違っているとしか言いようがない。だいたい、高校銃撃事件を生き残って、中絶経験して、嫌な親の元で育ったアメリカど田舎の女性が、わざわざ教師になり、結婚して子供つくり、同じ町で暮らしているとか、設定からして無理がある。ウマは悪くないのに、彼女の日常があまりに魅力がない。結局、原作と正反対ってことなんだろうな。

でも、逆に言えば、いつ高校で撃ち殺されるかもわかんない恐怖に怯えながら、保守的な周りの連中にうんざりしつつ青春時代を生きるしかない絶望的なアメリカの田舎のリアルってものに忠実である、といえるのかもしれない。このほんとに胸の悪くなる一連の悪夢、それがアメリカの現実だってこと。だから、不幸にも語学留学とかでアメリカの中西部とかに行こうとする人は、行く前にこういう映画を見て勉強しておくといいと思う。



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2008年09月23日

宮崎吾朗、ゲド戦記、2006

すごーい。あのすばらしい原作をこんなに魅力のない話にできるとは。あの原作の世界観もいつものジブリのキャラ造型によってぶち壊しになっている。テハヌーってこんな子だったっけ? いや、そもそも彼女が出てくる必然性がない。まあ、私は四作目までしか読んでない(あそこでけっこううんざりした。ル=グィンにははどこか平凡さを超えられない部分がある気がする)ので、文句を言える筋合いではないのかもしれないけれど、まあこれ作った人間は原作の魅力なんてまったく分かってない。そもそもこれって、『シェナの旅』のエヴァンゲリオン風バージョンに過ぎない。それに、生きていることのすばらしさなんて、説教だけで伝えられると思っているみたいなのがどうしようもない。そういうのは、「青臭い」のではなく、「幼稚」なのだ。何かを語るものとして。

こういう日本映画に多いできそこない映画は、作家主義というものの弊害なんだろうと思う。映画の価値が日本ではとても低く見られている反動かもしれんが、作家性みたいなのを無条件に信じている連中が多すぎる。映画はそれ以前に産業なのだから、プロの脚本家、演出家、プロデューサーらによる何段階ものチェックによって、少しずつよいものを作っていくという体制の下で作るべきなのに、そうなっていないというのがよく分かる。それができないのは多分に日本的な人間関係によるものなのかもしれない。まあ、しょうがないですな。

でも、日本の映画製作事情より深刻なのは、これに感動できちゃう子供が日本にいるってこと。なんかしかも、この映画に否定的な連中に必死で喧嘩売ってるらしいじゃないか。そういう子供たちって、映画見るの生まれて初めてとかなのかな。いや、でも私だったら、これが始めてみる映画だったとしても感動はしない。いや、感動することが悪いって言っているんじゃなくて、精神的な幼稚さが問題なんだよね、ここでは。これ感動するの、十台とかだろうけど、そういう子供の親は自分の子供がちゃんと育っていないことに気づかないといけない。世界名作劇場をちゃんと見せるとか、ヒカルの碁DVD買い与えるとか、いろいろ対策はあるはずなので、その危機をきちんと認識して対処してほしいものです。

でも逆に、自分の子供がきちんと育っているのかどうか不安な親は、これ見て感動しちゃわないかどうかで、ある側面に関しては確認することができるので、そういう意味では利用価値がある映画だ。これ見て感動しなくて、『クンフー・パンダ』で感動できたら大丈夫ですから、安心してください、と言っておこう。



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2008年09月16日

Mike Leigh, Happy-Go-Lucky, 2008

サリー・ホーキンスが明るくってつねにhappyな女の人(30の!)を演じていて、彼女と、彼女に劣らない変な人たちとの交流を描いたお話し。このPoppyの造形が絶妙のバランスで作られていて、一歩間違えれば頭の変な人なのに、そうならずにすんでいる。というのも、彼女も怒ったりするし、悲しんだり、人の悩みに耳を傾けたりするからだ。

いや、でもこの映画で一番変なのは、彼女以外の人物たちだ。その1.フラメンコの先生。彼女はもうなんだかわけがわからない。授業中に感情が大事だってことを強調して教えていると自分が興奮して泣き出しちゃう。とにかく強烈なキャラ。フラメンコ教室って日本でもこんななのかなあ。そんななら、ぜひ一度覗いてみたい。

その2。いかれた浮浪者。あーこういう人に話しかける人ってすごい人だと思うけど、Poppyだからね。んで彼はずっと"you know, you know, you know, ya'kno, ya'kno, ya'kno, ya'kno, ya'kno, ya'kno, ya'kno"とか、"she was, she was, she was, she was, she was, she was, she was, she was"とかを永遠にリピートする人で、彼をPoppyは哀しい目で見つめるわけ。この浮浪者の造形もすごいし、セリフもすごいし、役者もすごい。

その3。車の教習官。いや、実は彼が主演じゃないのってくらいストーリーの中心を占めている。こいつがまた教習官にありがちなタイプなんだよ。つうか、アメリカでも同じなんだなあ、そういうの。いやに神経質で、すぐ怒鳴るし、ずっと仏頂面。で、彼はだんだんとPoppyに対する人格的な攻撃に近いことを言ようになるんだよね。どこにもハッピーな人生なんてないんだ、とかだんだん無茶苦茶なことを言い出して怒り出す。いやー、こいつとのやりとりってのはしつこいくらい繰り返されるんだけど、面白いんだよね。いい役者だと思う。

でも、どうしてこういう不愉快な人との摩擦を描いているかというと。それはこの映画が、happyだと素晴らしいよねっていうお話しじゃなくて、happyでいるとつねにある一定の人々をストレスにさらすっていうことなんだよね。たとえば彼女の姉なんかは、妊娠していて、Poppyにあなた幸せになりなさいよなんて言う。で、Poppyはあたしは幸せだよっていうと、「あんたは私が安易な選択をしたといって責めているんだ」と言って怒り出す。これ、典型的な例だけど、こういうふうに自分が幸せだって言うのは、特定の人間にオフェンシブな言葉として作用するんだよね。で、監督はそういう可愛そうな人間だちをあぶり出そうとしているってわけ。これは、クレバーな映画だし、単純にコメディには分類できないと思う。

全体的に、映画ならではの分かりやすい人物造形が見事に効を奏していて、上手くできている。とくに、30台の女性っていう設定が上手い。これ、20台だと浅くなるだろうし、40台だと無理がある。んが、これを日本の映画購買層の主流である20台後半から30台くらいの女性に売るときに、どんな風にするのかな。きっと売れないと思うんだよね。だって日本って、Happyだって言ったらすぐ精神病院送りになるんじゃなかったっけ? きっと日本の多くの女性はPoppyに反感を持つことになるんだろうと思う。日本での公開が楽しみですね。
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2008年09月15日

Madonna, Filth & Wisdom(ワンダーラスト), 2008

なんか普通によいイギリス映画なんですが、これ。マドンナ本人は出ていない。彼女ほどいろんな才能のある人なら、もっと前に映画撮っていてもおかしくないけど、今まで待っていたというのは、彼女結構映画に熱心なのかもしれない。

主役のユージン・ハッツはそのまんまウクライナ出身のイギリス人の役。ホリー・ウェストンはバレリーナになることを夢みる女の子。こいつらがとてもいい味を出していて、もうそれだけで成功しているようなもの。こういう、キャラ立ち系映画ってやっぱりイギリス映画っぽいよね。ホリーの可愛くってセクシーなこと! この二つの魅力は日本人の女優には同時には出せない。

で、いろんな変な人が出てきて、ナレーションが入って、悪趣味だったり、ぐちゃくぐちゃだったり、群像劇だったりと、ちょっと昔の映画っぽいんだよね。けっこう真面目にイギリス映画やってるというか。まあ、初監督作でこれだったら、かなりよいと思う。だから、初回作はみんなマドンナということで見に行くと思うけど、二回目はそうじゃないだろうかもしれないけど、でも、次回作はもっとよくなるんじゃないかな、という感じだから、二回目も楽しみにしたい。



ラベル:MADONNA
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Alexandre Aja, Mirrors, 2008

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韓国映画『Mirror 鏡の中へ』のリメイク。『24』の撮影がストで中止になっている間、撮られた映画ということ。キーファー・サザーランドが廃墟になった家に入って、鏡に写る幽霊に悩まされるという話。話はそんなに怖くないけれど、演出がそこそこ怖い。ホラー映画としてはまあ及第点のできだと思う。



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2008年09月13日

Brian De Palma, Mission: Impossible(ミッション:インポッシブル) , 1996

初めてこの映画を観てから十年たってしまった。はじめて見たときはテレビ版と違う!とか熱心な『スパイ大作戦』ファンであった私は思ってしまった。この映画、単なる大作映画ではなくて、パルマ節というのがあちらこちらで炸裂しているとてもユニークな映画だな、ということを今回見て確信した。

演出が流れるみたいな感じで、ずっと一貫しているんだよね。カット割りはあるけど、リズムは長廻しのそれ。こういうリズムで撮る監督ってのはあんまりいないんじゃないかなあ。どういう原理なのかとても不思議。あと、観客ある程度おいてけぼりなんだよね、リズムを保つために。美しい映画の流れのほうがハリウッド的なわかりやすさよりも優位にきてる。小道具なんかも忘れたことに使われていて、下手するとなんのこっちゃかわからない。全体的に、複雑怪奇な筋と人物の心理に、観客はちょっと遅れながらついていくという感じ。こういう速度をもった映画ってのはあんまりないと思う。しかもそれが全体的に急ぎすぎじゃなく、優雅な速度で展開されての結果なんだからね。これはとても特異なことだと思う。

あと、トム・クルーズがすごい。この役は、いまのエドワート・ノートンでさえも無理な役だと思う。この映画は彼自身が監督も選んだプロデュース映画。あまりに美男子だから頭悪いのかなってついつい思っちゃうけど、彼の映画界についての偉大な貢献はもっと讃えられるべきだよね。ほかの共演者もジャン・レノが余計なだけでさすがの風格。

まあ、これは『スパイ大作戦』映画版ではなく、パルマ映画として見るべきですね。背後で二階から流れ落ちる大量の水とか、トム・クルーズの空中遊泳を思わせる泥棒の演出とか、英仏海峡トンネルでの決戦とか、とにかく奇想天外かつ唯一無二のイメージが満載。これはやっぱりすごい傑作ですね。



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Tao Peng, Xue chan(Little Moth), 2007

乞食をさせて儲けるために足の動かない女の子を買ったりするドキュメンタリー風の中国映画。もちろん中国では上映禁止。こういう映画を撮って生きていられるのだから、一般民衆のレベルでは中国のほうがそういうことに関しては韓国より寛容なのかな。あるいは単に情報がないだけなのかな。

ドグマみたいな感じの手持ちカメラでずっと進む。今の中国でもこういう映画が作られているのかって感じもするけど、『鉄西区』があったからね。んで、ひどいのはカメラがときにすーっと動くんだよね。足を映したり、バッグを映したりする。んで、その使い方が人物の心の動きを現そうとしていたり、監督の主張を言わんとしていたりで一貫性がない。つうか、そういう撮り方でカメラが上下に動いたりするのってすんごくわざとらしいと思うんだけどな。ドキュメンタリー風の撮り方をする場合でも、美学ってものがある。やっぱり、ダルデンヌ兄弟はすごいんだなってことがよく分かった。

いろいろ気に入らないこの映画。一つにはカメラ。二つのはとことん偽悪的なところ。ほらー中国ってのはこんなにひどいんだよー、みたいなので世界の人の関心を買おうとしているような気がした。第三にヨーロッパ人受けしすぎ。あいつら今更中国のネオリアリスムだとかいって喜ぶなよ。なんだその文化的優越感に基づいた評価の仕方は。そうじゃないのかもしれないけどなにか気持ち悪い。確かに、中国以外のアジアでこういう映画を撮ろうとする人がいないってのは問題なんだけどね。河瀬は違うし。うーん。

でも一方では、日本について映画で語るっていうのは、今の時代とても難しいような気がするんだよね。学級崩壊、過労死、ひきこもり、とかそういうの撮れっていうんだろうけど、うーん。普通のドキュメンタリーならたくさんあるし、映画学校の生徒とかが撮っているとは思うんだけど、どうなんだろうね。というわけで、私はこの映画を観て、本来考えるべきである中国社会の貧しさみたいなのについてではなく(そんなことはもう知っとる!)、今日の映画世界のいびつさについて考えてしまったのだった。
ラベル:Tao Peng 中国映画
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