2008年07月20日

Federico Fellini, Amarcord(アマルコルド), 1973

舞台は1930年代、イタリア、リミニ。フェリーニ、ニーロ・ロータ。誰もがこの『アマルコルド』については一言あるのではないかと思う。ここでは不肖私めの意見を披露させていただこう。

なになに、「誰もが経験する若いころの思い出」だって? んなあほな。誰もがあんな馬鹿でかいタバコ屋のおばちゃんにもてあそばれるのか? 誰もが近所総出で海に漕ぎ出して巨大な船を夜中に見るのか? 誰もが・・・まあいい。とにかく、自分に共通するような体験だけ抽象的に取り出して見るなっつうの。そうじゃあない。確かに、フェリーニの子供時代の体験そのものはあなたのそれと同じようにいくらでも凡庸でもありえる。だがこの監督は何を思い出しているのか、それは個々の体験というよりも、町の人々の絶え間のない活気ではないかしらん。

映像の魔術師、とかいうと、「映像」ってのはとにかく静止した絵のようなものを思わせる愚鈍な言葉であるのだけれど、フェリーニが何よりすばらしいのはその動きの撮り方にあると思うんだよね。8と1/2でも、一番わくわくするのは、主人公がテーブルの下にもぐりこむところだったでしょ? 『ローマ』でもみんながわいわい外で大量の食事をして、そして誰もいなくなるその一連の動きがすばらしかったでしょ? ここでも、映画館のシーンで、みんな一緒になって振動しながら映画を見ていて、それだけもすばらしいのに、突然「雪が降っている!」と、そのすばらしい共有体験を中断してまでみんなが大慌てで雪を見に行くところ。この一連の動き。はっきり言って、『ニューシネマなんたら』なんかとは比べ物になりません。絶句もの。そしてこの映画のほとんどのシーンは、ホテル関連のところは退屈だと思うんだけど、こういう超絶的なシーンで構成されていて、そりゃこれだけとれるんだったらなんだって好きなのとれて、世界中の映画賞そうなめにできるよな、という感じ。

子供時代の思い出を撮る、それだけでこれだけすごいシーンがたくさん出てくる、ということ、それはつまり、この人は子供時代から芸術家の感性をもっていたということなわけ。いろんな面白い人々に囲まれて、いろんな出来事があった、そのときの興奮を、人々の動きをこれだけ再現できるんだからね。ファシストの行進のシーンなんて、政治なんかとはまったく関係なく、ただみんなの動きの面白さだけがあるんだもの。そして、ラストの結婚式のシーン。なんと愉快でなんと美しいことか。絶え間のない人々の動き。一人で花束を拾う少女。こんなにすばらしく結婚式を撮れる人ってのはそういない。これはすごいぞよ。

というわけで、私にはこれは「パーソナルなフィルム」というよりも、どんな感性をもった人間がのちに芸術家になるのか、という見本のような映画だと思います。



posted by 映画狂人百歩手前 at 06:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 1970年代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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