2011年07月17日

Tsui Hark, Once Upon a Time in China III, 1993

ツイ・ハークの撮った『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズは三作どれも面白い。この「天地争覇」は三作目で、一番評価が低いけれど、なかなかどうして面白い。町中で繰り広げられるバトルに、獅子舞祭りの際のごったごた。最後のてんやわんやの戦いなど、どのシーンも見応えがある。

この監督は、カンフーをダンスの一種として見せている。戦いのシーンではまるでミュージカルのように人物が画面を踊りながら飛び交い、純粋な運動を見せてくれる。彼のそのような演出が一つの境地に達したのがこの「天地争覇」だと思う。ここでは一対一の戦いよりも、むしろ群舞が見所で、獅子の踊りなんかは、画面いっぱいを動きで満たせるために使われている。ツイ・ハークはカンフー界のバスビー・バークレーなのだ。

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2009年02月18日

Wong Kar-wai, Days of Being Wild(欲望の翼), 1990

何度見てもやっぱりこの映画はいい。初めの方なんか見ていてほとんど恍惚状態が延々と続いてしまうのだ。監督二作目にしてこの完成度っていうのはほんとありえない。Christopher Doyleのカメラもひたすら冴え渡っている。そして、ウォン・カーウェイは女の魅力ってものをすんごくよく知っている。ほんとにこの人は女性好きだと思う。

少しジメっとして自己に沈滞しているようなカリーナ・ラウと、踊り子で気性の激しいマギー・チャンは、明らかに両極に位置する二つの女のタイプを対照的に提示するために出されてきている。そして、二人ともとても魅力的なのだ。だいたい、この二人の顔がどれだけきちんと撮られているか。出会ったときの普通の顔、恋に落ちていく瞬間の顔、そして事が終わった後ベッドで見せる何ともいえない艶めかしい表情、男に甘えてじゃれついているときの表情、怒ったときの表情、これらの過程と表情が二人それぞれにおいて繰り返されるわけなのだけれど、まさに女性というものが見せる魅力的な表情のオンパレードという感じ。

そして、二人がそれぞれヨディ(レスリー・チャン)と別れるときに見せる苦しみの表情。表情だけで濃厚なドラマを語ってしまう女性の顔。私たちが濃縮された人生というカクテルを味わうのはそんなシーンを見るときなのだ。ああ女たち。

この映画はもちろん男たちについての映画でもある。アンディ・ラウ演じる警察官の一夜だけの出会いと恋。ジャッキー・チョン演じるサブがミミに寄せる激しくも哀しい片思い。そして二人の女を捨て養母とフィリピンに旅立ち、電車の中で死ぬレスリー・チャン。いい男ばっかりだし、それぞれの男が見せる表情もまたいい。レスリーの儚い笑顔を見ているとなんだか泣きそうになる。

これは小津の最良の作品にも匹敵する傑作だとぼくは思う。濃厚な映画ってのはどういうものなのかってことを教えてくれる。出ている俳優たちもまさに香港オールスターズ。ほとんどいつも大量の雨が降っている薄暗い香港の街と、狭苦しい部屋の中で繰り広げられる出会いの物語。音楽の使い方も見事。これは、『恋する惑星』とはまったく違う、大人の恋の話だ。続編はあの『花様年華』ね。


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2009年02月11日

Noémie Lvovsky, La Vie ne me fait pas peur, 1999

けっこう映画に出ている女優さんが撮った映画。ものすごく仲の良い女の子4人が大人になる過程を、その過程だけをシーンの組み合わせで散文的に語ったとってもクレバーな映画。女の子の思春期ってものを見事に描いていると思う。これはすごい。4人の子が大人になる過程は、映画の撮影に実際に数年掛けて、女優さんに歳をとらせて撮っている。
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2009年02月06日

Wong Kar-Wai、Chungking Express(恋する惑星)、1994

「重慶森林」という意味の原題のこのウォン・カーウェイ第三作は香港映画のイメージを塗り替えることになった。むかしはテレビのゴールデンタイムでこの映画が放映されていたなんてことを今の人は信じるだろうか? これを見たのはきっと今回で三度目くらいだけれど、スクリーンで見られた幸せに浸ることのできる傑作で、まったく古びてない。ほんとにすごい作品。

まず、金城武がかわいい。死ぬほどかわいい。それからフェイ・ウォンがボーイッシュで死ぬほどキュート。それからトニー・レオンもまだほんと若くてほんとかわいい。この三人にやられます。それからクリストファー・ドイルのこれでもかっていうドイルな感じの映像。彼もこれで有名になった。まあ、どんだけこの映画がエポック・メイキングだったかって感じだよね。

だって今見ると、これ『アメリ』じゃない? ひとんちの鍵手に入れて、勝手に入って、缶詰取り替えたり石鹸新しくしたり、金魚水槽に足したり、フェイ・ウォンが好き放題するわけ。で、やられたほうはやられたほうで、石鹸に「おまえ太ったな」とか、シャツに「おまえ勝手に変わるなよ、アイデンティティを大事にしろ」とか話しかけるわけだ。はあ、素敵だ。

なんにしても、フェイ・ウォンの雰囲気だよね。お店でひたすら大音量で「夢のカリフォルニア」かけて、掃除なんかも上の空でいつもやってる変というか、頭のネジが二十本くらいぶっとんでる女の子。いいです。こういう子が周りにいたらいいなあっていう感じ。それとトニー・レオンっていう取り合わせがまたいいじゃないですか。いいね、ほんといいね。ウォン・カーウェイの映画が好きだなんて言ってると軽く思われるかもしんないけど、これは文句なく大好きと言うしかない。
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2009年01月02日

北野武、ソナチネ、1993

北野武といえば暴力描写、みたいなことをよく言われているのだけれど、それは一面的すぎる。だいたい暴力をどういう風に描いていて、それが何を伝えてくるのかと。ここでは暴力は限りなく無気力的で、倦怠した日常とまったく地続きになっている。人の命の重みが限界まで軽い世界に生きている男たちにとって、拳銃を発砲することはほとんど暴力ですらない。それは限りなく即物的な行為でしかないのだ。

とはいえ、この映画はむしろ、死にさらされた男たちの、それゆえに限界をしらず滑稽なことをする男たちの最後の日々の話であって、だる日々のなかの一瞬の楽しさ、のようなものをひたすら描いている。



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2008年12月20日

Blake Edwards, Switch(スウィッチ 素敵な彼女?), 1991

男が女になるという話。
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2008年12月07日

Jean-Pierre Limosin, Takeshi Kitano, l'imprévisible, 1999

リモザンが"Cinéma, de notre temps"というテレビ番組の企画として数年間にわたって撮ったドキュメンタリーの一本で、これは総長時代の蓮實重彦が北野武にインタビューするというとんでもない企画。で、すんごい面白い。蓮實さんがけっこう変な質問を真顔で真剣にするのがなんともユーモラスなのである。

で、いろいろと北野監督に質問をして、どんどん語らせていくのだけど、子ども時代の母との戦いとか、映画における音とか、天使のテーマだとか、恋愛とか暴力の描写についてだとか、日本についてだとかいろいろ。

一番印象に残ったのは、あなたの作品では海はよくでてくるのにいつも砂浜にとどまっているばかりだという蓮實さんの指摘に、北野監督がぼくが夢を見ると山は幸せなイメージとしていつも出てくるのだけれど、海が出てくるときはいつも死んだりするような夢ばかりだ、とか言っていて、あー人によって夢に出てくるイメージの意味合いっていうのはほんとに違うもので、そういうのが彼のイメージの世界に大きな影響を与えているんだなあと感心した。

で、そのあとに『ソナチネ』での海辺での紙相撲のシーン挿入されて、そのモンタージュの仕方、コマ送りの早さを変えたり、音楽の挿入の仕方なんかが完璧で、実際の人間をコマ人形に見立てて紙相撲のまねごとをするシーンはただただ美しいのだった。

ある映画のある瞬間には、息をのむというしかないほど恍惚となるような美しいシーンがあることがたまにあるのだけれど、その紙相撲のシーンは滑稽だけれども美しく、今までにみた類がないものだったのだ。一緒に見ていた人たちはただ笑っていたのだけれど、あのシーンで声を失っているような人と映画について語り合いたいものだと思うのであった。
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2008年12月06日

Jean-Pierre Limosin, Tokyo Eyes, 1998

Jean-Pierre Limosinは2002年のNovoでファンになって以来、フランス映画祭でCarmenという新作を見たことがあったけれど、この日本で撮った伝説的な作品を見ていないままだった。ところが先日フランス人と日本人夫妻主催の映画の会でようやく見られたのだった。

終わった後、結局あいつは死んだのか生きているのか、とかフランス人がさっそく言い出したのには閉口したけれど、こちらで東京の1990年代の姿を思い出すというのはとても変な話だ。これは1998年公開だけれど、撮影は1997年で、それも1997年のけっこうはじめの方だと思う。なぜかというと、まだ公衆電話に「偽造テレカの使用は犯罪です」とか書いているから。あー懐かしいねえ。あの時代、上野にたくさんいた偽造テレカを売っていたトルコ人たちはどこにいったんだろうねえ。

で、武田真治と吉川ひなのがとても若い! うわーこいつらまだ十代じゃないのかって感じ。しかもけっこういい感じだし。これは監督の使い方が上手いのだと思う。武田真治とか日本の訳の分からない感じの若い男の雰囲気がとてもよく出ていた。吉川ひなののしゃべる日本語はどこかぎこちないほど丁寧なのが変だけれど、そこが逆に若い女の子がとても真剣に言葉を紡ぎ出している感じで悪くないのだ。こういう、必死でしゃべろうとする日本人がいる日本映画ってあんまりないんだよね。悪くないよ、ほんと。

でも、どうしてフランス人がこんなに東京っていう都市をうまく少し幻想的な仕方で見事に描き出すことができるんだろうねえ。まあ、国籍なんて関係ないのだろうけど、東京の、そして東京に住む人々のどこか病気っぽいところが題材になっているのは間違いないわけで、そういうふうにフンス人を惹きつけちゃう街っていうのはほんとに変な街だと思う。離れていると、ほんとに東京の変さ加減ってのがよく分かる気がする。



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2008年09月13日

Brian De Palma, Mission: Impossible(ミッション:インポッシブル) , 1996

初めてこの映画を観てから十年たってしまった。はじめて見たときはテレビ版と違う!とか熱心な『スパイ大作戦』ファンであった私は思ってしまった。この映画、単なる大作映画ではなくて、パルマ節というのがあちらこちらで炸裂しているとてもユニークな映画だな、ということを今回見て確信した。

演出が流れるみたいな感じで、ずっと一貫しているんだよね。カット割りはあるけど、リズムは長廻しのそれ。こういうリズムで撮る監督ってのはあんまりいないんじゃないかなあ。どういう原理なのかとても不思議。あと、観客ある程度おいてけぼりなんだよね、リズムを保つために。美しい映画の流れのほうがハリウッド的なわかりやすさよりも優位にきてる。小道具なんかも忘れたことに使われていて、下手するとなんのこっちゃかわからない。全体的に、複雑怪奇な筋と人物の心理に、観客はちょっと遅れながらついていくという感じ。こういう速度をもった映画ってのはあんまりないと思う。しかもそれが全体的に急ぎすぎじゃなく、優雅な速度で展開されての結果なんだからね。これはとても特異なことだと思う。

あと、トム・クルーズがすごい。この役は、いまのエドワート・ノートンでさえも無理な役だと思う。この映画は彼自身が監督も選んだプロデュース映画。あまりに美男子だから頭悪いのかなってついつい思っちゃうけど、彼の映画界についての偉大な貢献はもっと讃えられるべきだよね。ほかの共演者もジャン・レノが余計なだけでさすがの風格。

まあ、これは『スパイ大作戦』映画版ではなく、パルマ映画として見るべきですね。背後で二階から流れ落ちる大量の水とか、トム・クルーズの空中遊泳を思わせる泥棒の演出とか、英仏海峡トンネルでの決戦とか、とにかく奇想天外かつ唯一無二のイメージが満載。これはやっぱりすごい傑作ですね。



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2008年07月25日

Johnny To, 鎗火(The Mission), 1999

そうか、映画を作るということはこういうことなのか、と思わせる映画。登場人物のキャラクターの描き方、説明をできるだけ省いてシーンだけでストーリを分からせる手法、そして緊迫感とは何か、ということ。一つ一つ見ていこうではないか。

まずキャラクター。主役は五人の男たち。こいつらがみんな個性的。ありえないくらい。Shinだけが途中まで影が薄いけれど、最後に……。そうか、キャラっていうのはこうやって描くんだよな、というお手本を出してくれている感じ。しかも五人同時だよ。監督さん、ほんとに映画を勉強されています。それがよく分かります。

次に語り。多少観客を置いてけぼりにするかもしんないけれど、とにかくテンポがいい。きっとセリフがあまり理解できなくてもストーリーは理解できるはずだ、そんだけ映像がちゃんとしゃべっている。しかも、この監督独自のやり方で。スタイルというものとは何なのか、ということを教えてくれているような気がします。監督さん、ほんとにしっかりとしたヴィジョンを持っています。

そして緊張感。一番初めに撮ったというショッピングセンターのシーンの見事なこと。こんなシーン見たことない。

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五人が銃をもってじっとしているこのシーンでは、とてつもなく美しい緊張感を味わわせてくれる。これは、今までのアクション映画と呼ばれるものが未だかつて獲得したことがないものだったと思う。それがとくにこの映画の醍醐味なんだけれど、銃とかアクションとかっていうのは、緊迫感を出すための道具にすぎないんだよね。だからこれはほんとはアクション映画ではないはず。アクションではなく、むしろ、アクションが起きる「前」の凍り付いた時間のほうに重点があるのだから。

これだけストーリーがちゃんとあって、動きもある映画なのに、ある一瞬の時間の緊張感というものを、私たちが生きているそのままの形で届けてくれている、ことに驚いてしまう。不思議だ。



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